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元太田商工会議所会頭 本島虎太

“本島虎太”に序文として記載された当院院長の文章です。

本島虎太は私の父であり、長く太田商工会議所会頭を務めた人物であります。
本書は、本島虎太について商工会議所会頭としての足跡を中心として半生を記した書籍です。
僭越ながら自分の父の書籍を世に出すことになるとは、いままで夢にも思いませんでした・
きっかけとなったのが、地元太田市の高名な歴史家である、茂木晃先生との出会いです。
以前より茂木晃先生には、当家の歴史、先祖について“太田に光をあたえた先人たち“”太田地域の道とひと“”風土記おおた“”太田風土記“など様々な書籍について記載していただいておりました。
もとじま整形外科・糖尿病内科ホームページにて公開中です。

そういうことから、ときどき太田市の歴史などについて茂木晃先生と話すこともあったかと思います
2年前のことになりますが、私の先祖の一人である、“本島一郎伝“を、幸運ながら茂木晃先生に執筆していただきました。
これはたまたま日本整形外科学会80年史という書籍が数年前に出版されて、私自身が整形外科医ということもあり読んでみました。その中に本島一郎の名前を見つけたのです。
もしかすると父が昔ばなしをする中で、よくでてきた名前ではないかということが私の頭をよぎりました。調べてみたところ、私の先祖の一人であることがわかりました。
どんどん調べていくと、様々な人々とのつながりがわかり、縁があって茂木晃先生に
“本島一郎伝”を執筆していただくことになりました。
書籍完成に向けて、より深く資料について調査したり、関わりのある先生方と面談させていただく機会が増えました。幸い当家は歴史的には茂木晃先生の御尽力により、先祖代々の業績、来歴などがわかってきている家系です。
大まかなことは理解しておりましたが、深く先祖の人生、足跡を理解することにより、
誠に僭越ながら先祖の偉大さをひしひしと感じ、追いついていくには並大抵ではないと感じておりました。
また、地方の歴史、人物というものは、誰か残していく人がいなければ、散逸してしまうものではないかという意識が芽生えました。
例えば、江戸時代の大まかな出来事は、もちろん教科書に記載されておりますので、
皆さんご存じです。しかし、地方の歴史、人物については書き残していく人がいなければ
残っていかないと思うのです。
当家は、茂木晃先生のような方がいらしたため、ありがたいことに誠に恐縮ですが地方の歴史として残ることができたのではないかと思いました。
そのようなことが契機となり、自分の先祖について考える機会が増えました。
たまたま戦前戦後、医学部の教授を新潟医学専門学校整形外科初代教授 本島一郎、東京医科大学放射線科初代教授 本島柳之助、東京医科大学外科教授 篠井金吾と当家は三人輩出させていただいておりまして、文献など調べておりました。
そういうことを考えているときに、ふと父の話が頭に浮かびました。昔、父が現職の商工会議所会頭時代のことですが、周囲の方々に会頭任期が日本で一番長く、ギネスブックに記載されるのではないかといわれていたようです。当時は、そういうこともあるのかと聞き流しておりました。今回はせっかくなので、調べてみようと思い立ちました。早速、日本商工会議所にお尋ねしたところ、会頭在任期間日本最長であることがわかりました。そんなことを“本島一郎伝”執筆していただいた後の茂木晃先生と話をしていたところ、父の伝記を執筆しましょうかという話が持ち上がり今回の書籍につながりました。
よく考えてみると、私が生まれる一年前の昭和37年から39年間、私が38歳のときまで
父は、太田商工会議所会頭でした。物心ついてから、ずっと周囲から父は、“会頭さん”と呼ばれつづけていました。その呼ばれ方が、私にとっては普通であり日常であり空気のように継続していくもののように感じている期間が長いように思えました。
幼少期少年期の私からみれば、いとも簡単なことのように楽しそうに継続しているように見えたものです。
しかし、本書完成に向けて様々な関係者の方々と話しをしていくうちに、商工会議所会頭の職務の困難さをひしひしと感じました。会頭経験のない私が論じるのも恐縮ですが、まず自己の企業経営を健全にすすめていくことを基本と感じました。その上で太田市全体の企業の円滑発展のために自ら率先して資金提供を行い、地域に即した形で、それも今までにないような斬新な提案を常に考えて実現していく。しかも、周囲の方々の賛同を得る形での進め方でないと困難です。これは、仕事の遂行自体も大変なことですし、なかなか継続できるものではないと思います。父は、今尋ねると“昔から太田市、地域の人々に貢献してきた本島家の先祖の顔に、泥を塗らないように一生懸命やってきたつもりだ”と話していました。
その長期にわたる任期を全うしていったというのは、誠に僭越ながら客観的に考えてみても凄いことなのではないかと感じております。
書籍完成に当たって、執筆していただいた茂木晃先生、書籍の帯を記載していただいた石原信雄 元官房副長官をはじめ、書籍作成に協力していただいた諸先生方、関係者の方々、資料提供していただいた熊本五高記念館 藤本秀子氏、松田賢治 太田商工会議所顧問、太田商工会議所関係者の皆様、上毛新聞社 一倉基益氏に心より感謝を申し上げます。

分家本島家三代目当主
太田都市ガス株式会社 筆頭株主 取締役
もとじま整形外科・糖尿病内科 院長
本島 太

⇒太田商工会議所トップページに紹介あります。

“本島虎太”に寄稿として記載された当院院長の文章です。

“本島虎太”発刊に寄せて

本書が発刊になり、本島虎太の長男としては喜ばしい限りです。
父から私が教えてもらったことは、多くはありませんが、重要であり現在でも私の信条としていることがあります。
それは、大きく3つあります。
まず、一つめは、問題解決には、王道をいくことが大切であるということです。
何か問題が起きた時に尋ねると、必ず言っておりました。
問題が起こったときに、とりあえず本質ではないことであるが、てっとり早く解決する方法が存在することが往々としてあります。
いわゆるその場しのぎです。しかし、このようなことをやると後に禍根を残します。
大変なことになることもあるでしょう。
その場しのぎでない王道のやり方は、時には非常な困難、労力を伴うことがあります。
しかし、それがあったとしても王道をはずさないほうが、長い眼でみると良いと考えるということです。
私は、これを実践しており正しい方向性と信じて実行しております。
2つめは、約束は必ず守るということです。
これを聞いた時は、“これは簡単だ。簡単にできることではないか”と思いました。“
しかし、約束を必ず守るというのは、なかなか難しいことです。
どうしてもうっかりしていたり、またできもしない約束をしてしまうこともあります。
そこをきっちりやって初めて、人の信頼を得ることができるということでしょう。
たぶん、以上2つをずっと守って仕事してきたからこそ、父は長く商工会議所会頭を長く
やってきたのだと思います。
3つめは、人生をかけて仕事をしろということです。
これは、中途半端に仕事をしないということです。
昔から、父は仕事をしているか、家では寝ているか、食事をしているかどちらかの生活でした。ギャンブルなどは、全くせず、遊んでいるのをほとんど見たことがありませんでした。
ある日、“ギャンブルなど賭け事は、やらないのか?”と尋ねたことがありました。
すると、“ギャンブルなんかより、もっと面白いものがあるぞ。人生賭けた方が面白いぞ”と
いう答えが返ってきました。つまり人生賭けて仕事で色々とチャレンジしたほうが、面白いぞという話です。これは、日常を全力で生きて仕事頑張っているほうが、人生面白いというふうにも言い換えられると思います。私も仕事人間で、面白いからという部分がありますが、
ずっと楽しく仕事しております。
父は、そういう考え方を持っていたので、商工会議所会頭だけでなく、様々な仕事を引き受けてこなしていけたんだと思っております。
今は、働き方改革で仕事に制限がある方が多いと思います。
しかし、今の日本があるのは、父の世代を含めて先人が頑張ってきたからではないでしょうか?戦後の焼け野原から、先進国の仲間入りをするのは、並大抵の努力では追いつきません。
本当に死に物狂いで仕事をしてきたからと思います。
今の制度は、決められたものですから、制度に従って世の中は進んでいくことでしょう。
しかし、今後の日本がどうなっていくか?以前とは、全く違う形になるのではないでしょうか?
また、本書作成中に気がついたことがありました。
戦前の日本における優秀な教育制度です。
昔は、小学校6年が義務教育でした。
その後、義務教育でない中学校にいく人と、就職する人が存在したようです。
ほとんどが、小学校を卒業して就農する進路だったと聞きました。
確か10%くらいの人しか中学校に進学しないという風に聞いております。
旧制中学校は、5年制です。中学5年卒業すると、師範学校、専門学校などに行く人、就農する人などにわかれ、非常に成績の良い人は、陸軍士官学校、海軍兵学校、高等学校に進学しました。
簡単に言えば、軍人か高等学校に進学する人が優秀であると評価されていたようです。
中学校卒業して、高校に進学する人は非常に限られた人数で太田中学でも約5人くらいのようだったと聞いております。ちなみに、海軍兵学校、陸軍士官学校に進学する人は、あわせて約10人くらいのようでした。
またこれは現在と同じですが、高等学校卒業しなければ、帝国大学(東京帝国大学、京都帝国大学など)に進学する資格がなかったのです。
そうすると、かなり限られた人が高校に入学していたということになります。
高等学校に進学するということは、ほぼ帝国大学に入学するということになっていたようですから、日本を動かす人物になってもらうという明治政府の意図が入っているように思えました。
現に、父の中学校の同級生でも、石原信雄元内閣官房副長官(旧制第二高等学校→東京大学)をはじめとして、田島芳雄元獨協医科大学病院長 名誉教授(旧制浦和高校→東京大学)など錚錚たる方々が旧制高校出身者です。
父の在籍した旧制第五高等学校の卒業生名簿を拝見させていただきましたが、非常に偉い方々の驚くべき集団でありました。
しかも、かなり旧制第五高等学校の進級は厳格で、高校三年生になったときにクラスの三分の一しかストレートで進級できず、あとは留年か退学という非常に厳しい学校でした。
父は、必死で勉強したようですが、秀才、天才のひしめく学校ですから、ほぼ勉強せずに卒業された方々も大勢いらっしゃったようです。
異論は、あると思いますが、江戸時代から明治に変わって、教育に力を注いで優秀な人を
中央に迎え入れ他国に対抗していくための素晴らしい制度と思いました。
GHQが優秀な日本を恐れて旧制高校制度を撤廃させたという話がありますが、まさにその通りかと思います。
私は、中学校時代に北杜夫の“どくとるマンボウ青春記”を読んで、旧制高校の寮に憧れておりました。運良く神奈川県 桐蔭学園高校に合格し、やっぱり近い地元がよいと太田高校をすすめる父の反対を押し切り桐蔭学園の尚友寮という寮に入ることができました。
もう治りましたが、私が喘息だったため心配があったのかもしれません。
優秀な同級生、先輩がいましたが、規則などかなり厳しい寮でした。その厳しさは、先輩に対しての礼儀、態度はもちろんのことでしたが、同級生、後輩に対する態度指導も同級生にミーティングで指摘されることがたびたびあり、24時間気を抜けない生活なのです。ただし、当然ですがいじめなど低レベルなことはもちろんなく、皆で決めたルールを守りながら生活できているかということが問われました。卒業後に、同じ大学となった先輩と久しぶりにお会いしたときに“私も、24時間緊張して寮生活を送っていた”と話しをされていました。
やはり、先輩もそういう意識で生活していたのだなと思いました。最初に入学したときに同学年の寮生は36人でしたが、最後に高校3年間卒業まで残ったのが、たった8人です。私もなんとか頑張って残っていました。桐蔭学園尚友寮は、旧制高校のように自主管理寮でした。学校の校長先生、寮の舎監の先生とリーダー学年の生徒(高校2年生)が交渉して学校あるいは寮の方針で納得いかないところは、話し合いをもち、夜を徹して同学年でもよくミーティングをして寮の運営について話をするような雰囲気でした。一時、先輩が校長先生と対立し、先輩全員寮をやめる騒ぎになったこともありました。(結局、やめないことになりましたが。)こういう日常を過ごしているうちに、いわゆる今でいうディベート力がついたと思っております。また、文武両道を掲げていた学校であったため、寮生は運動部に所属する義務があり、卓球部でしたがかなり鍛えられ喘息も治ってしまいました。この卓球部の鍛えられかたも私にとってはかなり大変で、毎日10キロ走り、腹筋500回、腕立て500回、空気椅子30分、素振り2000回という日々の練習でした。これを一年生だけでなく、トレーニング専門の先輩もいて、自分も同じメニューをされるのでなにもいえず毎日もくもくと練習していました。今考えると非常に立派な先輩で、自分は補欠なのに後輩の練習に全部付き合ってくれたのです。現在も、後輩の指導するときに非常に役にたっております。振り返ると、自分の限界を超える勉学と運動をこなしていたと思います
ところで旧制高校の寮歌は、非常に有名です。旧制第五高等学校寮歌“武夫原頭に”も有名で憧れです。インターネット上で、聞ける状況にあります。御興味ある方は、聞かれればよいと思います。桐蔭学園高校の寮歌などは、マイナーのようでインターネット上にありません。残念ながら、寮歌に触れる機会はないと思います。
せっかくなのでここに、桐蔭学園高校尚友寮 第一寮歌 “相模の原” を紹介させていただきます。たぶんこの寮歌をつくった人は、かなり旧制高校を意識していたと思います。
“健児”、“玲瓏”などの表現は旧制第五高等学校寮歌“武夫原頭に”の歌詞にもあります。
また、第一寮歌とするところが、旧制高校かと思うところがあります。
残念ながら、作詞、作曲者は私の知る限り不明です。

“相模の原”

1.相模の原は、渺茫ときらめきそむる曙に
ああ玲瓏の蛭ヶ岳、巍巍千秋の色深し

2.丘に登りて見渡せば、丹沢の峰、富士の雪。
ああ青春の意気高く、若き健児の夢遙か

父の話を聞いていると、旧制高校の寮と私の寮とは近いところはあるけれども、まだまだ遠い存在です。しかし、私の人生の原点となっているのが高校時代の寮生活なのです。
桐蔭学園高校には、感謝しております。
余談が長くなりましたが、旧制高校は素晴らしい学校であったと思います。
本文にももちろん記載があります。
今回は、素晴らしい書籍に誠に感謝しております。
良い書籍ができて、非常に嬉しい限りです。
最後になりますが、父より、分家本島家三代目当主、太田都市ガス株式会社
筆頭株主 取締役 拝命いたしました。当家の歴史の重みを感じながら
一生懸命努めていきたい所存です。

分家本島家三代目当主
太田都市ガス株式会社 筆頭株主 取締役
もとじま整形外科・糖尿病内科院長
本島 太

新潟医科大学整形外科 初代教授 本島一郎伝

“本島一郎 伝”に寄稿として記載された当院院長の文章です。

本島 一郎 伝 について

今回は、郷土歴史家で高名な茂木 晃 先生に、当家の先祖について記述していただけることになり、大変感謝しております。
また、現在まで、“太田に光をあたえた先人たち”“太田地域の道とひと”“風土記おおた”“太田風土記”“太田商工会議所 40年史 星霜”など、当家に関する記述を多数していただいており、本当にありがたいことと感じております。
当家記述部分を、もとじま整形外科・糖尿病内科ホームページに収載しております。
本島 一郎については、つい10年くらい前まで、先祖であるのに恥ずかしながら全くといって良いほど知識がありませんでした。
たまたま日本整形外科80年史を眼にしたところ、本島一郎について、日本整形外科の黎明期にあり、整形外科を創始した東京大学の田代義徳教授の直弟子ということが記載してありました。
そこで初めて、父が昔ばなしでよく話していた人物ではないかと頭をよぎり、たまたま同じ専門の整形外科医であるということがわかり、非常に感銘を受けました。
興味をもったことがきっかけで、新潟大学医学部整形外科 遠藤 直人 教授をはじめ、医局の諸先生方に御面会させていただき、本島 一郎の足跡をまた新たに知ることができ、先祖の偉大さに今更ながら、驚嘆しているかぎりです。
自分のルーツの発見とともに、これからの自分の方向性について、多大なる示唆をいただきました。
歴史は続いて行くものですが、記載される方がいないと、そのまま散逸してしまうようです。
つまり、郷土歴史家の先生がいらっしゃらないと、地方の歴史などすぐに散逸してしますのではないかと思うのです。
当家は、幸運ながら、非常に良い出会いを頂きました。
再度になりますが、茂木 晃先生には、心より感謝しております。
素晴らしい書を、当家の祖先も喜んでいることと思います。

もとじま整形外科・糖尿病内科院長  本島 太

書籍

 太田に光をあたえた先人たち

 太田地域の道とひと

 風土記おおた

 太田風土記

 群馬県人

 群馬の医史

 日本整形外科学会80年史

 太田医師会 二十五周年記念誌

 太田医師会創立40周年記念誌 激動の世紀を越えて 2001年

 太田商工会議所 40年史星霜

 太田商工会議所 創立50周年記念 商工名鑑 1997

 太田商工会議所 創立60周年記念 青春の心

 群馬銀行30年史

 群馬銀行50年史

 群馬銀行80年史

 壁は破るためにある 元三洋電機会長 黒河 力 著