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当院の歴史
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当院の歴史

当院は、2013年5月開院のため、まだまだ始まったばかりの医院です。
しかし、私は、太田市にて江戸時代初期より代々医業に携わり約350年続く本島家の分家の一員として生まれ育ちました。
父ともども親しくさせていただいている地元太田の歴史家で高名な茂木 晃 群馬県教育振興会専務理事が、本島家について著作されている部分があり、御紹介させていただきます。
整形外科医、医師として、祖先である本島 一郎(新潟医学専門学校(現新潟大学医学部整形外科)整形外科初代教授、学長。日本整形外科学会第4回、16回会長)、本島 柳之助(東京医学専門学校(現東京医科大学)放射線科初代教授、日本放射線科学会会長)篠井 金吾(本島 一郎の娘の夫 東京医科大学外科教授 第5回日本麻酔科学会会長 第7回日本胸部外科学会会長)に少しでも近づけるよう今後も努力いたしていく所存です。
また、江戸時代から代々医業に携わっている者として、東洋医学に関してもこれから先も研鑽していきます。

本島家の歴史

本島家の略歴について

初代 本島数馬(高祖)

承応3年(1654)12月10日死去
戒名:「忠誠善智信士」

2代 本島七左衛門

3代 本島嘉右衛門

4代 本島自柳(自柳名乗り初代)

9代 本島柳翁(自柳襲名6代)

天保11年(1840)11月13日生れ
大正13年(1924)12月12日死去(85歳)
戒名:「英礼院貞山柳翁居士」
 幼名英之助、貞庵と号し、自柳を襲名したが、明治32年に隠居後「柳翁」と改名した。
 少年時代、江戸に遊学し漢学や国学を学び、安政3年(1856)17歳で長崎に出て医術を学んだ。慶応元年(1865)、父の5代目自柳が逝去したので太田に帰り、26歳で家業を継いで第6代自柳を襲名した。同3~4年にかけては幕末の動乱の世となり、新田満次郎を盟主とする「新田勤王党」(後に「新田官軍」)に参加、太田口関門守衛や戸倉口での会津藩兵との戦いでは金井之恭とともに隊長として活躍したと伝えられる。
 明治維新後は太田に帰り、医師の生活に専念した。やがて明治新政府の体制が整うに伴って町村制・郡制・府県制などが施行されると、太田町会議員・新田郡会議員・群馬県会議員にもあげられて、それらの職責を歴任した。この間、後輩医師の育成、医師会の役員、新田銀行の幹部役員、待矢場用水組合役員等を兼務して大活躍した。
 貴公子の風貌、談論風発諄々として倦まざる人柄、至誠一貫と熱血の行動力は町民・県民の敬仰するところ大であったといわれる。

10代 本島自柳(自柳襲名7代)(本名:綾三郎、撫一庵と号し、県会議長になった)

慶応3年(1867)6月20日北埼玉郡今井村(熊谷市)で栗原友右衛門の子として誕生。
昭和18年(1943)12月12日、胃癌により死去。行年77。
戒名:「真玄院仁山鶴壽大居士」
 明治18年(1885)4月、埼玉県師範学校を卒業、教職の道を志していたが、柳翁に見込まれて長女「乙女」と結婚し本島家の養嗣子になった。新たな境遇の中で、明治19年に上京し語学と医学を研鑽すること3年、同21年(1888)11月、内務省施行の「医術開業後期試験」に合格、医籍登録された。その後北里研究所で研究に励み、翌22年9月からは東京帝大医科大学専科に入学し、佐藤三吉博士に師事した。薬物学・外科学を専攻して同25年6月に卒業した。翌26年3月、太田に帰郷して開業、父柳翁とともに名医の伝統を受け継いで人々に仁術を施した。
 明治34年(1901)4月、35歳の若さで太田町会議員に当選、以後、新田郡会議員(議長)を経て、大正4年(1915)9月には群馬県会議員に当選、3期12年間活躍し、この間「県会議長」の要職も務めた。昭和7年の一県一行政策に際しては群馬県内銀行の大同団結を推進し、「群馬大同銀行」(現群馬銀行)の設立に協力し、尽力した。
 明治36年からは新田郡医師会長、大正7年からは県医師会選出日本医師会代議員、県医師会副会長、新田銀行取締役次いで群馬大同銀行(現群銀)取締役など昭和14~15年頃まで医学界・県政界・金融界などで三面六臂の大活躍をした。

11代 本島柳之助(自柳を襲名せず)

明治25年(1892)12月11日生れ
昭和32年(1957)9月14日、急性肝硬変で死去。行年65.
戒名:「本覚院人徳慈円翆柳大居士」
 太田中学卒業後、早稲田大学文学部聴講生となり文学に傾倒し、大正6年(1917)夏、中央日本を徒歩旅行した見聞記を上毛新聞に寄稿したり、同6年暮には1年志願兵として宇都宮歩兵第66連隊に入隊するなど青春の彷徨時代を過ごした。
 たけ夫人との結婚、父や親戚の人々からの勧めなどがあって医学を志すことになった。大正8年4月、東京医専に入学、同11年に同校を卒業し、医師免許を取って順天堂病院外科に入局。やがて、慶応大学病院放射線科の助手となり、藤浪先生からレントゲン医学の薫陶を受け、研究と実践に没頭した。大正15年2月から昭和3年12月まで渡欧、スイスベルン大学でドクトル免状を取り、ドイツベルリン大学で癌の研究に打ち込んだ。帰朝後すぐに慶応大学病院放射線科講師に就任、同6年には同科の教授に昇進し多くの研究論文を発表した。
 昭和5年(1935)8月12日、慶応大学に出した学位論文が通過して「医学博士」の称号を獲得した。本島家始まって以来の慶事だったから、家族・親戚一同の喜びは一入であった。以後、肺結核・胃癌・気管支炎・脚気・骨肉腫などの研究に没頭し、晩年には東京医大教授、日本医学放射線学会会長などの要職にあって後進の指導に当たった。端正な風貌と剃刀のように切れる頭脳を持った「学者」で「太田の殿様」とあだ名されたという。

 

本島 進…第10代本島自柳(自柳襲名7代)・乙女の二男、柳之助の弟

明治  年  月  日生れ
昭和34年(1959)1月29日死去。行年61.
戒名:「進善院閑空疎林法悦居士」
 本島家の二男として生まれ、太田中学校から旧制鹿児島第七高等学校(現・鹿児島大学)へ進み、さらに京都帝国大学経済学部に入学、河上 肇らに教わって勉学に励んだ。大正10年、同大学を卒業、同年に帰郷し小林一蔵氏の面接で一発合格し、東京電力前橋支店に就職が決まった。しかし、勤めて4~5年すると結核に感染したため退職のやむなきに至り、鎌倉の稲村ガ崎で静養することになった。若いころは野球・スキーなどスポーツに堪能で選手として活躍したが残念であったと思われる。昭和初期に現在の本島虎太家のところへ新築して太田に帰郷し、体調の管理に当たった。折につけ本島病院の業務を手伝ったり、太田女子高校の非常勤講師に出講したりもしたようである。晩年は俳句を趣味として悠々自適の生活を送ったという。

本島虎太…本島 進の長男

 父進の療養に伴なって鎌倉で幼少期を過ごし、やがて帰郷して太田中学校へ進学、石原信雄元官房副長官ら有為な人材と盟友となる。その後、医学を志して旧制熊本第五高等学校(現・熊本大学)に進学し、昭和24年に同校を卒業した。しかし、骨関節結核にかかったため、進学を断念して太田に帰郷した。昭和29年より本島病院に勤務し、常務理事など役員を歴任し、手腕を発揮して本島総合病院の発展と充実に尽力した。
 やがて昭和37年(1962)11月24日、太田商工会議所会頭に推挙され、青年会頭として新聞紙上を賑わせた。同46年からは太田都市ガス㈱を設立し代表取締役社長を務めた。そのほかの要職としては昭和45年「東毛福祉事業協同組合理事長」、同46年「群馬県商工会議所連合会副会長」、同47年「群馬県教育委員会教育委員」、最近は「太田市観光協会会長」等を歴任し、群馬県知事功労表彰、群馬県商工功労表彰受賞などの表彰を受け、やがて叙勲の栄誉に浴し2度にわたって園遊会に招かれたと聞く。
 人柄は発想が雄大で仕事は着実、合理的思考と果敢な実行力を持ち、リーダー性を発揮する。早く父を失ったので、若いころからの苦労人で他人への思いやりが深い。趣味は歴史探訪・絵画鑑賞・ゴルフなどであると聞く。

本島 太…本島虎太の長男

 地元小中学校を卒業後、横浜桐蔭学園高校へ進み、さらに医学を志して愛知県の藤田保健衛生大学医学部医学科に進学、平成12年3月同学を卒業した。医師免許を取得して平成13年5月より獨協大学医学部附属病院の麻酔科に入局し、次に整形外科に移り、その専門性を発揮して現在に至る。この間、川崎医科大学卒業で、順天堂大学で糖尿病医学を修めた佳代子夫人と結婚し、二人のお子さんの父となった。
 このたび医院長として『もとじま整形外科・糖尿病内科』医院を太田市新野町1160(℡0276-33-9777)に創設し、平成25年(2013)5月6日に内覧会を実施し、5月8日晴れて開院の運びとなった。診療科目は「整形外科」・「リハビリテーション科」・「糖尿病内科」・「内科」である。
 400年余にわたり医術をもって衆庶に仁術を施してきた本島家一族にあって、祖父本島 進、父本島虎太の念願がここに結実し、前途洋々たる船出ができたことは本島一族並びにご家族のお喜びはこの上ないものと拝察申し上げる次第である。                    (文責:茂木 晃)

 

茂木 晃先生の略歴

平成25年9月1日現在

1.氏 名
茂木 晃(もぎ あきら)
【昭和12年(1937)3月19日生れ。77歳】

2.現住所
〒373-0036 太田市由良町1531-11 TEL(0276)32-0746

3.現 職 
(一般財法)群馬県教育振興会専務理事。
群馬地名研究会副会長。
前太田市文化財保護審議委員会長。
太田市私学審議会委員。
太田市文化スポーツ財団理事。
新田義貞公顕彰会会長(平成25年6月28日総会より)。
高山彦九郎研究会副会長。
太田高校金山同窓会 宝泉支部長。
学校法人「有坂中央学園」教育顧問、評議員。
MOA美術館太田児童作品展実行委員長。
太田市新道町町内会相談役。
県会議員高田勝浩後援会長。

4.表 彰
平成19年度「太田市民文化賞」受賞。平成20年度「太田市功労者表彰」受賞。

5.学 歴
昭和30年3月 群馬県立太田高等学校卒業。
昭和34年3月 群馬大学学芸学部人文社会科学科(地理学専攻)卒業

6. 職 歴
昭和34年9月 東京都足立区立千寿第三小学校教諭(3年7月)
〃 38年4月 群馬県立太田女子高等学校教諭(地理・歴史担当、12年11月)
〃 51年3月 〃   西邑楽高等学校教諭(地理担当、11年1月)
〃 62年4月 〃   桐生工業高等学校 教頭(2年)
平成 元年4月 〃   太田女子高等学校 教頭(1年)
〃  2年4月 前橋市立女子高等学校(平成6年度より市立前橋と改称) 校長(5年)
〃  7年4月 群馬県立太田女子高等学校 校長(2年)
〃  9年3月 定年により同校を退職。同9月より有坂中央学園の教育顧問に就任。
〃 10年4月 有坂中央学園中央情報経理専門学校 初代校長に就任(6年)
〃 16年3月 同上専門学校退職。9月より有坂中央学園教育顧問・評議員に就任。
〃 16年4月~21年3月、太田市新道町区長代理(2年)・区長(4年)歴任。

7.主な著書・論文など
(1)論文
昭和34年「地方都市太田の立地に関する研究」卒業論文。
〃  42年「太田の都市化」太田高校創立70周年記念誌「金山」所収。
〃  45年「太田南一番街造成に関する研究」高社研会誌第10号。
〃  52年「太田南進の研究」西邑楽高校紀要第1号。
〃58・60年「大泉町東部地域の都市化第1報、第2報」群馬県助成事業。
平成10年「太田の都市化について」群馬県地域文化研究協議会「群馬文化」所収。
〃   「太田中心市街地における歩行者通行量」群馬地理学会「えりあぐんま」所収。
〃 16年「地図で辿る太田中心市街地の歴史」群馬地理学会「えりあぐんま」所収。
(2)著書
昭和63年「風土記おおた」(太田商工会議所発行)。
平成元年・3年「ふるさと散策~ふるさとの風土と歴史を訪ねてその1、その2」(群馬NEC)。
〃 10年「ふるさと”太田”地名散歩100」上毛新聞社。
〃 12年「写真集 太田・大泉の100年」あかぎ出版。
〃 13年「太田地域の風土と歴史」『オギハラ50年誌』所収。
〃 18年「ふるさと事典 太田」あかぎ出版。
〃 18年「目で見る太田・館林・邑楽の百年」郷土出版社。
〃 20年「太田地域の道とひと~道路誌・人物誌ものがたり」東京広告㈱。他に共著多数。

8.茂木 晃が執筆した(共著など)その他の主な著作物
「ふるさとの風土とくらし」(みやま文庫、昭和40年)。
「日本地誌第6巻群馬県」(二宮書店、昭和43年)。
「日本地名大事典・関東編」朝倉書店、昭和43年)。
「太田女子高校五十年史」(太田女子高校、昭和48年)。
「太田地域商業近代化地域計画報告書」(太田商工会議所、昭和49年)。
「おおた風土記」(観光事業センター、同51年)。
「上州の苗字と家紋」(上毛新聞社、同52年)。
「群馬県百科事典」(上毛新聞社、同54年)。
「目で見る群馬の百年」(煥乎堂、同57年)。
「大泉町誌下巻歴史編近現代(行政)」(大泉町、同57年)。
「ぐんまの風土とくらし」(高教研地理部会、同57年)。
「群馬人名大事典」(上毛新聞社、同57年)。
「思い出のアルバム太田」(あかぎ出版、同58年)。
「西邑楽高校十年史」(編集委員長、西邑楽高校、同60年)。
「郷土に光をかかげた人々Ⅰ巻」(群馬県教育委員会、同60年)。
「太田高校90年史」(太田高校、同62年)。
「歴史地名体系 群馬県の地名」(平凡社、同62年)。
「角川日本地名大辞典10群馬県」(角川書店、同63年)。
「太田商工会議所40年史“星霜”」(太田商工会議所、平成元年)。
「まんが太田の歴史」(近現代担当、太田市、平成5年)。
「太田市史 近現代 資料編・通史編」(執筆・監修、太田市、同6年)。
「ぐんま112のなぞ」(執筆・監修、上毛新聞社、同7年)。
「銀翼遥か―中島飛行機50年目の証言」(概論執筆、太田市、同7年)。
「ぐんまの日本一88」(監修、上毛新聞社、同9年)。
「太田市議会史 通史編」(太田市、同10年)。
「あかまつの郷―太田あれこれエッセイ集―」(太田市制施行50周年記念事業、編集委員長、太田市、同10年)。
「太田に光をあたえた先人たち」(編集委員長、太田市教育委員会、同14年)。
「新世紀ぐんま郷土史辞典」(群馬県文化事業振興会、同15年)。
「太田 金山 子育て呑龍」(執筆、群馬県教育振興会、同15年)。
「群馬の地名をたずねて〈増補版〉」(上毛新聞社、同16年)。
「わたしたちの地名」(上毛新聞社、県子育連総連合会、同16年)。
「地理学者高山彦九郎」(執筆、高山彦九郎研究会誌、同16年)。
「岡上次郎兵衛景能の人と業績-笠懸野の開発と地名」(群馬地名だより所収、同17年)。
「プロフライフィッシャー・フライデザイナー『里見栄正』さん」(執筆,季刊ぐんま87号、同18年)。
「太田太皷製造の伝統工芸士『山口宗一』さん」(執筆、季刊ぐんま92号、同19年)。
「群馬県新百科事典」(上毛新聞社、同20年)。
「大間々籠~『田沼巳一郎』~」、(執筆、季刊ぐんま98号、同20年)。
「ものづくり日本大賞・総理大臣賞に輝く現代の名工『梅澤隆雄』さん」(執筆、季刊ぐんま97号、同20年)。
「訪ねてみませんか『歴史に名高い新田義貞』」(執筆、季刊ぐんま98号、同21年)。
「太平記の里『新田義貞公ゆかりの地を訪ねて』」(執筆、広告誌OH-TA!、同21年)。
「ぐんまの郷土芸能『太田市新田木崎町の木崎音頭(節)』」(執筆、「地域文化」、同22年)。
「太田の実業家『葉住利蔵』」(執筆、振興ぐんま102号、同23年)。
「大泉町とその周辺の地名あれこれ(1)(2)」(執筆、群馬地名だより76号・77号、同23年)。
「子育て呑龍さまでられる大光院初代住職『呑龍上人』」(執筆、振興ぐんま、同24年)。
「韮川・太田地域の風土と歴史」(執筆、太田東高校30周年記念誌所収、同24年)。
「日光例幣使道の設定と13宿の機能について」(執筆、群馬地名だより第83号所収、平成25年7月13日号)。
「日光例幣使道その2(太田宿)」(執筆、群馬地名だより第84号所収、同年10月12日号)。
「日光例幣使道の設定と十三宿の機能について」(執筆・寄稿、全国地名研究交流誌『地名談話室』28号所収、平成25年11月1日号)。
「群馬の地名(3)『由良』、『天良』」(執筆、『群馬歴史散歩』第231号所収、平成25年10月15日発行)。

書籍

 太田に光をあたえた先人たち

 太田地域の道とひと

 風土記おおた

 太田風土記

 群馬県人

 群馬の医史

 日本整形外科学会80年史

 太田医師会 二十五周年記念誌

 太田医師会創立40周年記念誌 激動の世紀を越えて 2001年

 太田商工会議所 40年史星霜

 太田商工会議所 創立50周年記念 商工名鑑 1997

 太田商工会議所 創立60周年記念 青春の心

 群馬銀行30年史

 群馬銀行50年史

 群馬銀行80年史

 壁は破るためにある 元三洋電機会長 黒河 力 著

家系図

太田商工会議所 40年史星霜より